いした物語

いした物語 その1 「初代・石田多作の巻」

初代・石田多作の巻






石田多作はその当時、現在のいした店舗から少し離れた所にあった民家を作業場にして津軽の食文化である「しそ巻梅漬」の生産を始めました。

その当時は梅漬の他にカマスというものを作っていました。

カマスとは叺と書きます。藁で編んだムシロという布状のものをつなぎ合わせて丈夫な袋を作るのです。

それまではお米や炭を入れるものとしてタワラが作られていました。

その後、大正から昭和にかけて「足踏みで藁を編む機械」つまりムシロを編む機械が地元に普及しカマスの材料が手に入るようになったのです。

主に農家の方々がこのムシロを編んでいましたので、石田商店はこのムシロを買って集め作業場にてムシロをつくり、問屋に卸していました。

カマス作りは戦後まで続きました。

特に注意が必要だったのはお米を入れる為のカマスを作る場合です。

お米用のカマスは当時、食糧事務所の人が検査に来て一つ一つ調べ、検印を押したそうです。


カマスはワラを編んで作ります。残った切れ端のワラはたい肥として使われていましたので当時の
ワラはほとんど燃やしたり、捨てたりする必要が無かったと言われています。

そんなワラを使ったカマスも次第に便利なビニール袋に変わっていきました。

いしたではその昔、「熟しカキ」というものも作っていましたがそれはまた別の機会にご紹介いたします。



    

いした物語 その2 「熟し柿の仕事」

「熟し柿の仕事」
 いしたでは、シソの葉で梅の実をくるんだ「しそ巻梅漬」を作り続けてきました。そして、梅の商売の他にも、先に紹介した「カマスづくり」のように、いろいろな仕事をしました。なかでも、思い出話が尽きないのが「熟し柿」をつくる仕事です。いしたの会長・石田まち(前・社長)が、父親の急逝を機に家業を手伝うようになったのが昭和30年代初期のこと。そのころはまだ熟し柿をつくっていました。
  熟し柿というのは、収穫した柿をたき火の煙で数日間いぶしたものです。やわらかく、赤い色に仕上がったカキは、甘くてとてもおいしいものでした。いしたでは、熟し柿づくりを昭和30年代後半まで続けていました。

【柿の収穫作業】

 熟し柿をつくるためには、まず原材料になる生の柿を手に入れなければなりません。そのため、柿の収穫時期になると、2~3人の人夫さん達をつれて柿の木がある家に行き、収穫してその場で重さを計り、買い取っていました。柿の時期になると、人夫さんたちがやってきて、大変にぎやかだったといいます。近所の人夫さんのなかには、柿もぎ用の長いハシゴをかついで自転車に乗り、その恰好で弘前の一番町の坂を上ってきた、というすごい人もいました。
 柿の収穫では、木製の長い丈夫な梯子と、「コダシ」と呼ばれるカゴを使いました。コダシは、麻で編んだ細い紐を編み込んだ袋状のものです。口のところは丸く、太番線(ハリガネ)でつくられています。この「コダシ」がよくできていて、これには長い紐と、木の枝を使った「カギ」がついていました。




 柿の収穫では、ハシゴを木に立てかけ、ハシゴを登り、上からコダシ(収穫用のカゴ)の紐を引っ張り上げます。そして、コダシについているカギの部分を柿の枝に引っ掛けておいて、収穫した柿を入れていきます。



コダシがいっぱいになったら、カギを枝から外し、ヒモを使って、井戸の水汲みのようにコダシを下ろします。下で待っている人が柿を他の入れ物に移し、コダシが空になったらまた引き上げます。
 カギに使う木の枝は、現地で適当に調達することが多かったようです。木の「枝分かれ」をしている部分を利用して、柿の木の枝に引っ掛けて使うため、ちょうどよい形のものを普段から探していたといいます。身の回りの物を有効活用する創意工夫の精神に満ちていました。



 柿の木の下にいる人たちは、柿のツルの切断作業をしました。柿の実から伸びているツルは、そのままにしておくと、熟し柿にしたときにほかの柿を傷つけてしまうのです。柿のツルは、なるべくなら現場で、ハサミを使って切り落とした方が良いとされました。

【柿の木の下の思い出】

 いしたの会長(石田まち)が石田の家業を手伝うようになった頃、長女(現・専務)が生まれました。会長はそのころ長女をおぶって柿の収穫に行ったそうです。会長によると、柿の収穫作業では、人夫が柿の木にハシゴで登り、自分と母親(フミ)は柿の木の下で作業をしたといいます。
柿の作業に限らず、商売のことは母(フミさん)から教わったと語ります。会長は、当時、仕事のために自動車教習所へ通っていました。柿の木の下で法規の勉強をした想い出があるそうです。当時、津軽地方において女性ドライバーの先駆け的存在でした。

【柿を売りに行く】

 収穫した柿は、その場で計り、買い取ってカマス(ムシロの袋)に入れました。昔は「カマスに一杯いくら」という方法で売りに行ったこともありました。カマスには16タテと20タテという、二つのサイズがありました(20タテの方が大)。16タテは肥料などに、20タテは供米に使われました。タテの数とは、カマスの素材であるムシロの編み方において、縦糸の本数を表しているといいます(当時はまだビニールなど便利な袋が無かったので、カマスはさまざまな用途に使われていました)。
 収穫した柿をカマスに入れて、それを生のまま鰺ヶ沢や五所川原などへ売りに行ったこともあったそうです。しかしながら、柿を入れた袋は重く、それを遠くの街まで売りに行くのは大変です。幸いなことに、当時、近所の魚屋さん(クドゲン)がオート三輪を持っていて、そこに頼んでいました。それ以前は、荷車(馬車)を使っていたそうです。

【熟し柿をつくる】

 熟し柿は、火の温度(熱)と煙でつくります。熟し柿の仕事で大変なことは、火をたき続けることです。24時間、2~3日かけていぶします。会長の母・フミは、夜中も起きて日の晩をし、「人が寝ている時働く、もうけて当たり前」と話していました。「熟し柿をつくるときには24時間火を絶やさないようにする。だからこそこの言葉は、商売人として身にしみる。」と会長は今でも話します。
 熟し柿をいぶすための燃料には、木の根を使いました。長時間燃やすために、太い木が選ばれました。松はヤニのにおいが強いので、ほかの木を使ったそうです。
 熟し柿は屋根裏部屋のある小屋の中でつくられました。一階の床は土間になっていて、地面のままです。二階はマゲ(屋根裏)になってます。その屋根裏の床板の隙間から、一階の土間の煙が出てくるようになっていました。昔はこのような柿をいぶす小屋がたくさんあったそうです。
 小屋の二階の床には藁を敷きました。その上に柿を並べて、さらにその上にムシロをしいていました。昔の人は、本当に丁寧に、無駄なく柿の実を並べていて、感心するほどだったそうです。会長は今でも、「柿は、ずっと、きれいにならべて大きさもそろえた。売りもんだもん。」といいます。

【思い出に残る言葉】

 大事につくり上げた熟し柿でも、大きく良い色の柿の先端の中央に5mmほどのヒビが入ってしまうことがありました。それは、一番味の良いものですが、商品としては一番安くなってしまうのです。会長の母・フミは、「売るにいたわしい」「売るにもったいない」といい、娘(会長)にくれたといいます。

【柿の商売の終わり】

 柿の商売は昭和30年代の後半まで続きました。しかしながら、その後は、柿よりもおいしいものが多くなり、周囲に新しい建物が立ち並ぶようになりました。柿の小屋も古くなりました。そのうち、熟し柿の商売は終わりをつげました。

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