弘前城の桜祭
時は大正時代、当時の弘前に呑気倶楽部というユニークな会がありました。
「不良仲間の集まりだ」とか「道楽者の寄り合い」などと市民からは異端視扱いをされていましたが、様々に先進的な活動を大胆に繰り広げた団体でもあります。
当時の弘前公園では現在のような盛大な桜祭の催しはありませんでした。
花見の習慣はありましたが、それほど賑やかなものではなかったらしいのです。
その当時有名だったのはなんと言っても秋田の千秋公園の観桜会でした。
春になると津軽各地から大勢の人達が秋田千秋公園に花見に出かけていました。
その事について当時の新聞(弘前新聞)は「弘前公園も、早く道路や土手を整備し、千秋公園に負けぬように、外客を招致すべきだ」と書いています。
この当時、呑気倶楽部は、上野公園や千秋公園の観桜会(花見)を何度か視察していました。
そして、弘前公園でも観桜会を実施しようと関係者に提案をし、大正五年1916年に計画を立てました。その内容は以下のようなものでした。
期日は5月12日。会員は仮装して「幾代亭」に集合。
11時より仮装行列を作りて出発、五丁目より親方町へ入り、下土手町、一番調を登り、追手門より会場へ到着。
午後零時より余興を始める。出演は呑気倶楽部員。
その後,宴会。
当時、呑気倶楽部の会員数十人が弁天小僧や切られ与三郎など思い思いに仮装をし、沿道は見物人で大層にぎわったと言われています。
そして二年後の大正7年5月3日より一週間の会期で第一回観桜会が弘前商工会主催により行わました。
呑気倶楽部が主催をして、花柳界を動員し芸妓や倶楽部員が仮装をして市内を練り歩き公園で花見をした事が、弘前観桜会の先駆けとなったとして、後に「茶太楼」「宮城喜兵衛」「角南天洋」の三人が高く評価を受けました。
(夜桜のライトアップは大正5年より、アーク灯を使って始まったとされています。)
現在の弘前城の桜祭りは、出店や食堂、お化け屋敷、見世物小屋、芸能など様々な催し物も開かれています。
りんごの選定技術を活かした見事な枝ぶりの桜が咲き誇る中、さながら昭和中期にタイムスリップしたような楽しさを味わう事が出来ます。
東北以南にお住まいの方々は、こちらの花見は4月末あたりから始まりますので花見を2度楽しむことも出来ます。
